院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


長いお箸


 子供が二人いる。上が息子で十一歳。下が娘で六歳。兄が妹の面倒をみながら仲良く遊ぶという微笑ましい光景は、我が家ではきわめてまれにしかお目にかかれない。言うに憚られるような低レベルの喧嘩を繰り返しては、細君もそのレベルに合わせて(あるいはもともとそのレベルなのか?)叱ったりなだめたりしているのが、いつもの風景である。兄妹とも負けず嫌いで、人に譲らず、他人に厳しく自分に甘い性格であるので、まあこういう状況はきわめて自然なことであろう。子は親の鏡と言われれば、返す言葉もない。先日、兄妹喧曄があまりにもひどかった時に、私は家長として二人を仏間に正座させ、説教をたれた。以下はその時用いた説法であるが、最近ちょっと聞きかじった話を、自分流に大幅に脚色しているので、原典と違うという突っ込みはご容赦願いたい。子供達には、教養あふれる父親として、知識のほんのひとかけらを開陳し、厳しき庭の教えを授けるといったスタンスで訥々と話し始めたということはいうまでもないことである。さて、その説法とは……。

 ある小悪人が、閻魔様の前に引き出されました。閻魔様は閻魔帳を開きながら、こう言いました。
「おぬしは、生前悪いことを沢山してきたようだの?しかし、時々はよい行いもしておる。そこで、わしは、迷っておるのじゃ。天国と地獄、どちらにおぬしを送ろうかとな。どうじゃ、どちらに行きたいか申してみよ。」
すると、その小悪人はふてぶてしく言いました。
「天国も地獄も行ったことがございません。どちらかを選べと言われても……。」
「なるほど、もっともだ。それでは、特別に天国と地獄を少しだけ、見せてやろう。それから決めるがよい。」
そう言うがはやいか閻魔様は、その人に天国と地獄を見せてあげました。小悪人が見た天国は、清潔な衣服を着た沢山の人々が、大きな食卓を囲んでいるところでした。食卓の上には、今まで見たこともないような、豪華な料理、珍しい果物や、お菓子が山のように溢れていました。さて地獄の方は、やや薄汚れたなりをしていますが、これまた大勢の人が大きな食卓の周りに群がっていました。その食卓にも豪華な料理が所狭しと並んでいます。
「天国でも地獄でも、あんなおいしそうな料理が食べられるのなら、わたしはどちらでもかまいません。」
「そうか、おぬしには同じようにしか見えぬか。今一度機会を与える故、目を皿のようにして見てみるのじゃ。」
 今度は地獄の方から先に見えてきました。食卓の周りに群がる人々はなぜか一メートル近くもある長いお箸でご馳走を食べようとしていました。当然そんなお箸では、うまくつまめたとしても長すぎて口に運べません。それでみんな苛立ち、あちこちで争いが起きていました。おいしい料理を目の前にして、その場所は餓鬼の修羅場だったのです。次に天国が見えてきました。食卓に集う人々は、同じように長いお箸を使ってはいますが、つまんだ食べ物を隣の人の口元に運び、差し出された人は、それをおいしそうに食べていました。お互いご馳走の味を賛美し、お互いの優しさや気配りに微笑みます。
「どうじゃな?まだ同じようにしか見えぬか?」
「恐れ入りました。なんという大きな違いでございましょう。しかして、わたし自身のことを考えるに、わたしは地獄にいる人たちと同じです。無用に長い箸を罵り、うまくいかないことを他人のせいにし、我欲のために人を蹴落として来ました。天国へ行く資格はございません。」
その言葉を聞くと、閻魔様は仏様の姿に変わり、優しく微笑みかけました。

 そこまで話して、私は子供の顔をのぞき見た。きょとんと聞いていた長男が、
「天国の人たちも地獄の人たちも、そんな使いづらい長いお箸なんか使わずに、手でとって食べればいいんじゃない?」
「そうよ、そうよ。」と妹が助け船。
まったく、こんな時だけ仲がいい。この話は、長いお箸を使うからこそ成り立っている話なのだよ、わが子らよ。長いお箸を使うという最低限のルール。人が人として生きるための基本的な取り決めは、時として自由を奪い、ある時は絶望の淵に己を追いやる。しかし、その長いお箸こそが自分自身を見つめる鍵であり、価値観の違う他者との大切な架け橋でもある。それは、日々の生活にも、人生の長い道のりにも、至る所に存在する。それに気づかずに、あるいは気づいていても気づかないふりをして、手づかみで食欲を満たす人のなんと多いことか。そんな自戒を含めた愚痴を聞いてもらうのは、まだまだ先のことだろうなと、独りごちして息子と娘の頭をなでた。畳に残っている落日のぬくもりが、つきあわせた膝を通して伝わってくる。父子三人を優しく包み込んで、秋の夜は想い出したように急に更けていった。
  


目次へ戻る / 前のエッセイ / 次のエッセイ